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2012年1月24日

JAGAT info2012年1月号「事業承継と新創業 新たな領域への挑戦」

2011 年11 月22 日「経営シンポジウム2011 不易流行の経営 事業承継と新創業を考える」
第2部ディスカッションに弊社社長 井戸 剛がパネラーとして参加しました。
ディスカッションの模様は、2012年1月15日発行のJAGATinfo1月号に掲載されました。

経営シンポジウム2011 不易流行の経営~事業承継と新創業を考える
第2部 ディスカッション「事業承継と新創業 新たな領域への挑戦」

<モデレーター>
一橋大学大学院国際企業戦略研究科 教授 菅野 寛 氏
<パネラー>
株式会社金羊社 代表取締役社長 浅野 健 氏
不二印刷株式会社 代表取締役社長 井戸 剛 氏
日本電鍍工業株式会社 代表取締役 伊藤麻美 氏

菅野 成熟した業界の中でいかに事業を成功させるためのチャンスを見つけるのか、あるいは見つけたのか。なおかつそれをどのように実際の事業に落とし込んで成果を出すかについて探りたい。もう1つは、2代目、3代目の経営者としてどのように事業を継承して、ビジネスを育てていくのかに焦点を絞って3人の経営者にお話しを伺う。

浅野 私の祖父は長野県で高等学校の教師をしていたが、「これからは印刷がいいぞ」と言われて、明治時代に東京へ出て、印刷会社に職を見つけ、後年独立する。しかし、関東大震災で全てなくし、大正15年に私の父が再び起業したのが金羊社である。現在、従業員が約280名。主なマーケットが音楽、映像である。音楽分野においては現在でもCD周りの印刷物に関してトップシェアである。このほかDVD、Blurayなどの映像周りのものも扱っている。この市場に特化したことは結果としては間違っていなかったが、特化したマーケットが縮小していく状況にある。それは5年くらい前から予測していたので、幾つか新しい展開を始めている。

井戸 不二印刷は昭和8年創業で79年目になる。昭和42年にいったん倒産しかけて、現会長である私の父が再建に当たった。私は大学を卒業後、大手都市銀行に入り当初は会社を継ぐ気はなかったが、以下の3点から不二印刷株式<会社に転職することになった。①働いていくスタンスが一緒であったこと、②まだまだ印刷業もやり方次第で伸びていくだろうという確信、③会社を経営できるチャンス。当社は通常の印刷会社とは異なり、デザイン会社とシステム会社と印刷会社が3 つ合わさったような会社である。オフ輪部門ではまだまだ大量印刷が中心で、ギフト関係や通信販売関係が多い。最近はデジタル印刷にも力を入れている。

伊藤 日本電鍍工業は、表面処理、金属メッキがメインの会社である。55年ほど前に父が埼玉県に創業した会社で、当初は腕時計のメッキをメインにしていた。父はメッキが非常に専門的な分野で、誰もが経営できるわけではないということで、将来を見据えてメッキにこだわらない経営を考え、多角化を進めていた。しかし、父が急に亡くなったことと、父の死後を継いだ経営者が変化を拒み腕時計に依存し過ぎた。腕時計が成熟産業になり、生産拠点が海外にシフトしたことや放漫経営もあり、倒産の危機に瀕した。私は会社を継ぐ予定はなく、ラジオのディスクジョッキーをして、その後アメリカに留学して宝石の鑑定士、鑑別士の資格を取って自分の人生を生きていた。しかし、父の興した会社がなくなるかも知れないという話を聞いて守りたいという気持ちが強くなった。その思いは人一倍あり、経営を引き受けた。現在では時計が2割ほどで、それ以外は医療関係、精密部品、管楽器、美容に関するもの、アクセサリーのメッキなど、完全な少量多品種をこなす会社に生まれ変わった。当社は日本で製造し続けることにこだわり、市場のニーズに応えられるような会社を目指している。

いかにビジネスチャンスをつかむか

菅野 成熟産業という市場的には厳しい状況にありながら、どのように事業機会を見つけるのかについてから議論を始めたい。浅野さんは映像、音楽に特化してからどのように進んでいったのであろうか。浅野 印刷産業もそうだが、日本の音楽産業も音楽CD生産6000億円台だったのがピークで、今は3000億円を切っている。DVDが登場しているが、両方合わせても6000億円にはならない。しかし、音楽配信、ライブがあり、音楽そのものが減少しているとは考えていない。印刷業は成長する過程でも競争はあったが、アナログの時代は職人の世界が生きており、カラーの○○印刷、組版の○○印刷など特長を生かせる時代であった。しかし、デジタルの時代になって特徴をお互いに見出せなくなり、価格競争になってしまった。これはニッチであった音楽、映像産業市場でも同じである。その中でトップをいかに守るかとなると、当たり前のことをきちんとこなし、品質面、納期面でお客様からの信頼を得なければならない。また、今までやってきたことを更にシェイプアップしていけば、方法は見えてくるだろう。そのためには価格以外の価値でお客様に喜んでもらえるスタイルをとる。その1 つとして、新たな音楽との出会いを見つけられるWebサイト運営やアーティスト関連グッズの開発にも注力をしている。

菅野 井戸さんには、デザインとシステムと印刷の3つの事業で具体的にどういう仕事をするのか補足をいただきたい。

井戸 デザインやシステムは、印刷の川上や川下事業の1つだと思っている。通信販売をされているお客様では、以前は印刷するだけの仕事であったが、デザインも、モデル・商品撮影もやろうということになった。その次のステップでは全体的なマーケティングのお手伝いをしていく形になり、デザイナーやカメラマン、プランナーなどクリエーターが集まってきて、印刷に関連する仕事を一気通貫でやれるようになった。印刷物の制作は川上から川下までの一連の流れで、ワンストップサービスを進めていくという戦略でやってきた。

菅野 印刷から始めて、川上と川下にもお客様のニーズがあるというバリュー・チェーンの発想である。伊藤さんの会社は、主力だった腕時計分野が2割以下になったということだが、どのようにお客様を開拓したのか伺いたい。

伊藤 倒産の危機に瀕していたので、まず赤字体質から脱却しないといけない。それには売り上げを上げることで利益を得るしか方法がなかった。恐らく人員削減ができれば黒字転換はもっと簡単にできたのだろうが、それは絶対にやらないと決めていた。私が入社する前に1度リストラを行っていたからである。人を切らないでも利益を出すためには、それまでと違った体質の会社にしなければならない。しかし、資金がないし、借り入れも多く、新たには借りられないので設備投資ができない。簡単には新たな分野を開拓できない状況だった。実はメッキにはいろいろな種類があり、1社で全てを賄えるわけではない。液も違う、設備も違う、ジグも違う。それらで差別化を図っていく。時計の設備で売り上げを増やすのは困難で、なかなかターゲットが見つからない。そこで、私が考えたのはインターネットである。社長に就任した2000年当時は、中小企業でHPを持っていたところはまだ少なかったこと、製造業向けの受発注ページがあったのでそこに登録したことなどで、徐々にお客様が増えていった。さらに、当社の貴金属メッキというキーワードで考え、メッキの勉強を兼ねて当社の得意不得意を分析していったら、それが結果SWOT分析になっていた。それを基に身近なマーケットはないのかと考えた。また、当時は携帯やパソコン、IT 関係が伸びていたので、そこに参入すれば簡単に売り上げだけは伸びたはずである。しかし、設備投資ができないことと、それだけ市場性が活発になると価格競争になる。レッドオーシャンではなくブルーオーシャンに行きたいので、そこで更に考えた。自分がお金はなくとも絶対に切り詰めない分野で、メッキが関わる分野は何であろうかと。それは、医療と健康と美容である。それらに絞って営業した結果、売り上げはそれほど増えなかったが、仕事内容が変わり利益体質になった。

菅野 お客様のニーズをいかにしてつかむかであるが、分かり切ったお客様ニーズであれば、みんながそこに殺到し、結果、競争が厳しくなり儲からない。井戸さんの場合は、通販の仕事で印刷だけではなくて、その川上、川下業務まで手掛けるきっかけは何だったのだろうか。

井戸 簡単に言うと、仕事の受け渡しをする際、ためらわずにお客様の仕組みに入りこんでいったことだと思う。印刷自体には大きな差がなく、ほかの会社に発注されることもあり得るので、印刷だけではいつ仕事がなくなるか分からない。お客様が面倒に感じる手間のかかる部分を当社で受け取ろうということである。具体的には、①お客様がいろいろな会社とやり取りしていることを「当社で全部やります」、②表を作って消し込みしているという話を聞くと「全部当社がシステム化します」といったように、アウトソーシングの部分から入り込んでいった。発注部門に成り代って仕事をしていたので、気がつくと当社がいないとお客様が発注できない仕組みを構築した。このように、お客様の仕組みに入り込むことを1 つの目標としている。

菅野 印刷会社がそんなことができるのだろうかとお客様側は思っても不思議ではない。どのようにやったのか。

井戸 システムから入っていく仕事では、社名に「印刷」とあることが受注の障壁になった。とくに大手ほど、印刷会社にシステムができるわけがないという思い込みがある。具体的な事例を紹介すると、印刷を担当していたお客様からインターネット絡みで、システム案件のオファーがあった。競合相手は、有名な大手IT 関連企業だった。最終的には、開発をする会社としてIT 系の名前を持った会社を設立し、窓口は不二印刷という形にして受注できた。

菅野 価格以外でも選んでもらうために、お客様のニーズを見つけるために、どのような工夫をしているのかを浅野さんに伺いたい。

浅野 競争の激しいマーケットで価格以外に何があるかを考えると、1 つはお客様からの信頼感である。「君に任せれば少し高いけれども安心だ」というものである。また、お客様が「そんなこともやっているの」という驚きで、ある意味でのワンストップサービス型である。いずれにしても、相見積もりを避けるには、川上の更に川上で、例えばアーティストやプロダクションから直接指名をいただく、アルバムの制作過程にも参画させていただくなどがある。それらを実現するために、「音楽好きによる音楽好きのための出会い系サイト」を当社で運営している。このサイトはミュージシャンに、「あなたがお休みになるときにどんな音楽を聴いていますか」などの質問で、好きな音楽を推薦してもらう。紹介された曲は購入先をリンクしたり、フリーで頭出し15秒を聴けるようにしたりしている。これがやがては何かビジネスに結び付いていくという確信のもとで進めている。今年から日本レコード協会が始めたアワードで、ミュージック・ジャケット大賞がある。この賞が、なぜ音楽配信が伸びている時代に出てきたのか。それは当社が長年ミュージックジャケットギャラリーというイベントを展開してきたことが無縁ではないと思っている。こういうことが当社の魅力になり、「あの会社と付き合ってみたい」「あそこなら大丈夫だろう」とレコード会社に思わせたい。だから、このイベント開催は経費ではなく、投資であると捉えている。ここを見誤ると、経営をしていても、夢も面白みもなくなってしまう。

経営理念、経営ビジョンはいかに定着させるか

菅野 企業理念やビジョンをしっかり持っていないと、目先の受注競争などに目を奪われて5年、10年経つといつの間にか沈んでいく。何が投資かは難しいが、「エイヤッ」で決めることも経営者には必要である。逆にそれをやらないと未来がないということは分かっているとしたら、なおさらである。伊藤さんは、倒産寸前のときにどうやって理念を掲げて組織を引っぱ<っていったのか。

伊藤 当社の経営理念はアースフレンドリーである。環境のことではなくて、お客様をはじめ協力してくださっている方々、社会を含め地球全体から愛される企業を目指すということである。だから倒産しそうなときにでも私は人を守ろうと思った。いかに私が社員を愛するかということで、要するに愛を知らない社員が愛情を持って品物を作れるのかということがある。お客様が我々のメッキした商品を手に取ったときに、「良かった」「うれしかった」「本当にいい製品だ」と思っていただきたい。利益を出さなくてはいけないが、儲けばかりを考えて仕事をしても良いものは絶対に生まれない。愛情やプライドを持って仕事をしてこそ、もの作りだと思っている。当時48名いた社員は賞与も出ない中、何ひとつ文句も言わず頑張ってくれた。徐々に成果が出てきた2009年にリーマンショックがあって、またかなり厳しくなった。それでも、敢えて私は賭に出て、人員を十数名増やした。企業は継続することと雇用維持がミッションだと思っている。そのためには、やはり会社として成長し続けなければならない。2、3年先だけではなくて20、30年先も見なくてはいけない。リーダーは常に成長しなければいけないが、一緒に成長するチームメイトが必要なのである。人を大切にしない企業は人からも大切にされないし、まして絶対に伸びないと思っている。

菅野 井戸さんの会社の企業理念を伺いたい。

井戸 社員の職種が多様化して、会社の中にいろいろな価値観を持った社員が増えた。そこで、社是・経営理念に加えて、信条や会社の価値観をクレドとして20項目にまとめた。クレドを制定した目的は、喜ばれること、嫌がられることを組織の価値観としてフェーズを合わせようというものである。クレドの内容は、「挨拶をしよう」「人と話すときは目を見てメモを書こう」「人の悪口を言わない」など、社会人として当たり前のことがほとんどである。それを毎日1つずつ、朝礼や打ち合わせのときに読み合わせをすることから始めた。クレドは、名刺サイズのカードとして常に携帯している。各自が実現しようと考えるクレドを持ち歩く「マイクレド」も始めた。今は社是・経営理念・クレド、会社と各部門の方針などを掲載した社員手帳を全社員に配布している。また、工場も全部止めて、グループ企業も含めて200人弱いる社員全てを集めて、年2回、1日かけて会議を開催している。そこでは、事業方針などの発表だけでなく、会社・部門の違う社員がコミュニケーションを取れる仕組みも入れている。

菅野 理念や信条をきちんと理解して上手く機能し出すと、社員は自分でものを考えて判断できるようになってくる。マニュアルにないことが起ったときに必ず信条に戻って判断して行動すればよいから、自分で動いてくれる。これは経営者にとっては非常に素晴らしい状況である。浅野さんのところは経営理念、ビジョンはどうだろうか。

浅野 「いかなる時も社会とマーケットから信頼され、誇りと創意と感謝に溢れた人間集団であり続けたい」。これが当社の経営理念である。ビジョンでは3年後、更にお客様に役立つには今何が足りないのか明らかにしてそれ補っていくことが基本だと考えている。3年後も必要な会社だと言われるために足りないものはたくさんある。それらに優先順位を決めてタイムスケジュールを区切っていけば中期の経営計画になる。優先順位を決めれば単年度予算計画にもなる。さらにマーケットの成長性、世の中の変化を捉え、常に新しいことにチャレンジすることをいとわない企業風土を作っていきたい。そのときのポイントは自社の経営資源だけで可能かどうかの判断である。もし、自社の経営資源だけで難しいなら、一緒に進めるパートナーを探す。そういう意味で自社の経営資源をより豊かにするため、これからはアライアンスを視野に入れていきたい。

失敗を次のステップへの学びに

菅野 失敗談、あるいは失敗から何か学んだことがあれば伺いたい。

浅野 問題は失敗をどう評価するかである。20年前、カレンダーコンテストに参加して、菊全のカレンダーを企画した。著名カメラマンを起用するなどかなりの費用を掛け、力を入れて製作した。それをいろいろな媒体にプレゼントした。それなりの反響もあり、自分では大成功だろうと思った。そこまで費用を掛けて製作したのは、美的センスのある、それを忠実に再現できる、本物よりもいいものを仕上げる技術を磨く、そういう風土を作ろうという思いだった。しかし、その想いを伝え切れずに継続できなかった。

井戸 私はポジティブな性格なので、失敗を失敗と思わないし、そのままプラスに変えていこうと常に思っている。当社はこれまでカリスマ性のある父親の下で働いていたので、日本経済の成長期は言うことを守っていたら会社が回っていた。そのため、中堅層が薄いので、社長就任以来その中間層を育てることに注力してきた。「人財」はかなり育ってきて、非常に面白い「人財」も採用できた。しかし、そのことに注力し過ぎたのか、私の視野が内向きに入り、外をきちんと見る、俯瞰することができていなかったことが失敗であり、反省すべき点だと思う。

伊藤 私も、失敗を失敗とあまり感じないというか、失敗を成功に持っていくまでやり続けるという少ししつこい性格である。4年ほど前に、権利ばかりを主張し社内の和を乱すので、ある社員にやめていただいたが、辞めさせ方に少し問題があってストレスを感じた。社員は大切にしているが、問題があって改善が見込めない場合に、時としては判断しなくてはいけない。私が毎年全社員と面談をする中で、その社員は3年間ずっと約束を守らなかった。結果、裁判になって、和解で解決はできたが、結果オーライとはいえもう少しスマートなやり方があったかもしれない。

菅野 ポイントは、失敗を失敗に感じないで、そこから学んで失敗を成功に持っていくこと。私も我が社も、1つ成長できた貴重な体験だったと思える前向きな発想である。もう一つは、普段善人であるから鬼になるときは鬼になれる。鬼になっても周りは納得して付いてくる。伊藤さんの判断はまさにそういうことである。次に事業継承はどうだったのだろうか。また、先代を継いで苦労したことは何か。

浅野 私は15歳のときに父を亡くしたので、直接、父から社長職を引き継いだわけではない。父の後に社長をした人から44才のときに引き継いだ。その人は会長になった。社内外とも社長として私を見るが、実際には会長が実権を握っていた。そのうち社内社外ともに権力の中枢はどこにあるか見抜いて、決定事項について会長の意向はどうかを私に確認する。これはいい勉強の時間であったと思う。その後いろいろあって会長職を退いてもらった。それで、自分で全て決断できるようになったが、もう誰のせいにもできないと感じた。自分の中で会長がいるからやりにくいのだという言い訳ができたので、会長がいることは嫌だったけれど、実は楽だったのである。そのせいか、雲が晴れて青空になったときに、今までさんざん悩み考え優先順位も作っていたのに体が動かなかった。中期経営計画を立てるなど、自分がしたかったことを徐々にやり始めたが、ともかく最初はスピードが出なかった。

伊藤 父の後に経営を任せていた人が会社をおかしくした。経営を担って10年もしないうちに、資産が豊富でほぼ無借金の状態から10数億円の借金ができて、金融機関との関係も悪くなった。私は最初、監査役として、その後取締役として経営に参画した。あまりにも状態が悪くて誰も経営を引き受けてくれない。その中で私は父が築き上げたものを守りたい、社員を守らなければいけないという思いにかられて経営を引き継いだ。しかし、私を導いてくれる人は誰もいない。とにかく全て信用がない状態である。まず、社内の和と信頼関係を築き上げることと、資金がない中で会社を回すこと。そして金融機関との信頼関係を築き上げることに力を入れた。当時の当社の信用力や、32歳の社長で、女性だからという目もあったように思う。そういう意味ではその辺が一番厳しかった。

菅野 井戸さんは、いかがだろうか。

井戸 銀行員として普通に人生を送ろうと考えていたが、冒頭で挙げた3点以外に、使命感だけでなく、運命を感じて入社した。最初の仕事は「お前、運転手をせい」と父である社長(現会長)の運転手もした。朝迎えに行って、夜も酔っぱらいの父を送って帰る(笑)。その後、自分のできることを一つひとつやり続けていて、4年前に社長が替わることが決まった。

菅野 継承に伴う共通した問題は、新社長は経験が不足しているので、社員が先代を信じてしまう。どのように社員の人心を把握していったのか。

浅野 企業とは人が人を豊かにするために作った人の集団である。だから、企業の主役は常に人でなくてはおかしいと思っていた。会社は、それぞれの人たちが自分の意思で選んだ、その人の人生を豊かにするための道具であると定義付けしている。そのことを早く社員の皆さんと共有したいという思いがあった。だから、まず、1年掛けて全社員とミーティングをして、働くことの意義を話し合った。その中で何でもいいから1 つ、日本一になろうということを話した。

井戸 私はまだまだ新米経営者だと思っているので、現在進行形である。具体的に何かをしているというわけではなく、会社に対しての自分の想い、真剣に会社のことを考えているということを少しでも共有できるように、社員にはなるべく分かりやすく話をするようにしている。

伊藤 私はいきなり外からきた経営者だったので、前経営者に対して不満を持っていた社員たちが、やはり私に対しては不安、前任者に対しては不満で、就任当初はみんなが常に心が晴れていない状態だった。信頼関係を築くために、とにかく毎日毎朝、私から全社員に挨拶に行く。これは今も続けている。当時は更に自分から率先して掃除もした。また、私という人間を知ってもらうために、いろいろなコミュニケーションを取った。最初は会社や前任者への不平不満ばかりで、それを聞くのは私の仕事であると思って3 カ月くらい毎日聞いたが、ある日突然、不平不満を言わなくなった。

経営者に求められる資質とは

菅野 経営者に必要な資質とは何か。またそれは後から学べるものだろうか。

井戸 私自身が経営者としての資質を備えているか分からない状態で日々過ごしているが、「前向きに考える」「ポジティブに物事を考える」ことがなかったら、しんどいと思う。「今日のあの一言が失敗だった」「この判断がミスだった」と、気にしていては体が持たないだろう。さらに何がなんでもやり遂げるという責任感、筋を一本通す意思が必要だと思う。経営者という立場になれば資質があるかないか関係なく、向いていようが向いていまいがやらなくてはいけない。やるためにどれだけ努力をするかが一番大事であると思う。

伊藤 私もポジティブでなければいけないと思う。ポジティブであるためには常に元気でなくてはいけない。だから、自分を元気に保てる何かを持つ必要がある。例えば、それは子どもの寝顔かも知れない。仕事帰りのビール1杯かも知れない。何でもいいので、切り替えるスイッチをしっかり持つことである。それから、目標を持って諦めずに突っ走るには気合いと根性が必要だ(笑)。経営者としての資質とは関係がなく、環境が私を育ててくれると思っている。社員やお客様、周りの方たちから学ぶことも多い。自分が経営者として社員の夢を叶えられるかどうかという思いが、パッションが熱ければ誰でもしっかりとした経営者になれると思う。

浅野 この仕事をしているという誇り、今までの連続で仕事をしないという創意。そして、自分ひとりでここまできたのではないといういろいろな方に対する感謝。この3 つがあると思うのである。それに加えて品性と正義感が必要である。

菅野 私が前座でお話ししたことに近いので、我が意を得た思いである。市場分析、財務諸表が読めるなどのテクニックは必要だが、後から学べる。本当に最後までやり切ろうという気合いと意志と根性が重要で、それさえあれば後は着いてくると私は思う。前向きで明るいことも重要だと思う。また、誇りと品性と正義も非常に重要である。単にお金儲けのため、会社を私物化して自分の夢を実現するためだけに走ると、私が観察してきた例では一時は上手くいっても5、10年経つと上手くいかなくなる。理由は単純で、結局あの人は自分のためにしているのだということが周りに分かってしまうので、いざというときに周りが付いてこない。また、お金のためでない、社会正義のためだと考えると自分も持ちこたえられる。最後に皆さんにお伝えしたことがあればお願いしたい。

井戸 今日のテーマは「不易流行の経営」だが、実は父の座右の銘が「不易流行」なので、運命的なものを感じている。今の環境では、できない理由は幾らでも出てくるが、できない理由を考えるのではなくて、どうやったらできるのかを考えながら前に進みたい。当社は、このところ国籍も豊かにいろいろな「人財」を採用できているので、「人財」を活用しながら明るい未来を築いていきたい。

伊藤 私はずっとインターナショナルスクールで育っているからか、考え方が日本人ではないとよく言われてしまう。海外にいた経験もあるが、逆に日本が大好きで、日本を元気にさせたい。日本の製造業の一員であることにすごくプライドを持っている。その思いをしっかり伝えられようにしていきたいし、女性として経営者になった以上、もっと女性が働きながら子育てをできるような日本にしていきたい。そして、私の夢である100年企業を目指していく。

浅野 当社は5年前に創業80 年を迎えた。そのとき、80年前と現在で何が変わって何が変わらなかったかを比較してみた。その結果、変わらなかったのは社名だけだった。金羊社という企業に皆さんはどんなイメージを持ってくださっているのか考えてみた。それは善良な企業ということだろうと思うのである。当社の「不易流行」はどのように変革していこうと、「善良な正しい企業である」ということである。そして、そういう人たちの集団であり続けたいと思う。

菅野 最後に皆さんにお願いだが、今日の学びは何だったのか自ら考えていただきたい。今日はここで 時間半の時間を使った。それにも関わらず、仕事に戻って考えも行動も何も変わらなかったとしたら、この3時間半の価値はゼロだということになる。私がいろいろな経営者を見て学んだことは、経営者は何からでも学ぶのである。時間を無駄にしない。あることに3時間使ったらその前と後で必ず何かが進歩している。だから皆さんも、ぜひ、何を学んだかを考えて欲しい。

2011年11月22日「経営シンポジウム2011 不易流行の経営 事業承継と新創業を考える」より(文責編集)